September 27, 2011

タイに行ってました。



ナイロビからアフリカを飛び出し、タイへ弾丸旅行してきました。
バンコクとその郊外で滞在60時間位。 

なんでなんでしょうね、アジアの町があんなに心地良いのは。アフリカでもそれなりに発展している町はあるんですが、バンコクのように、香港のように、シンガポールのように、東京のようには心地良くない。 もちろん私が日本人であって、アジアで育ってきたから、馴染みのある雰囲気が心地いいっていうのもあるんですけど、それだけではないと思うのです。 

アジアの町が素敵な理由はいろいろ挙げられそうですが、私が指摘したいのは2点。 

ひとつは「多様であること」。
そこにいる人も多様であれば、食べ物も多様。買い物するにしても選択肢が多い。何か手に入れようと思えば、高いもの、安いもの、かわいいもの、洒落たもの、といろんな種類がある。 摩天楼の大都会に、裏通りの庶民的な通りも隣接している。近代的なもの、雑多なもの、猥雑なもの、きれいなもの、いろんなものがある。その多様さが、アフリカにはない気がする。少なくとも今住んでいる町にはないし、以前住んだことがある中東の某都市にもなかった気がする。 

ノーベル賞経済学受賞者のアマルティア・セン博士は、「豊かさとは選択肢が多い事である」と喝破してますが、まさにそうだなぁと、思うのです。 

そしてもうひとつは「safeであること」。
日本語で言えば、治安が良い、安全である、ということなのですが、ただそれだけで片付けてしまえるレベルではなくて、気を張る必要がない、簡単にいえば「ゆるさ」がある。これは欧州の町にもない感覚だと思う。なんか食べながらそぞろ歩いてても問題ない町がある。外ですわってビール飲んでてもいい場所が広がっている。もちろん、犯罪はあるし、気をつけなくてはいけないところもあるんだけど、アフリカとはそのレベルが違う。その気楽さ、safetyが心地いい。

 と、ぐだぐだ言ってますが、バンコク最高、でした。

September 04, 2011

「絶対安全」の空気と戦う。

以前、生きている以上各種のリスクは不可避なんだし、リスクと賢く付き合って行くしかないんだよ、っていう記事を書いたんですが(「絶対に」安全、なんてないのさ。)、相変わらずゼロ・リスクを求めるヒステリックな声が席巻している件。

なんて書くと、「安全厨」だのなんだのって批判を受けそうなのですが、幸い私のブログは読者が少ないのでまあいい。それでも、上記の記事は@sasakitoshinao氏にリツイートされたり、ガジェット通信経由でそこここに転載されたりしたので、それなりに読んだ人の反応を見ることがありました。意外と私の記事に賛意を示してくれる人が多くて安堵したんですが、やはり5件か10件にひとつくらい、ゼロ・リスクの主張に通じる議論にならない議論をふっかけるコメントもありましたよ。

さてそれで。

この「絶対安全」を求める空気なんですけど、「合理的に考えよう」「リスクと賢く付き合おう」と述べただけの人を「でも、危険性はゼロではないんですよね?それを認めるのは無責任じゃないですか?」「子どもたちの内部被曝を認めるんですか?ひどいですね。」というような言説で押しつぶそうとしているように感じます。正直、この空気が怖いです。マスコミはどちらかというとこの空気に乗っかった報道をするところが多いみたいですし(私が海外に住んでるので実態はよく分からないですけど、そう思われるような話はよく聞く)、今、政府や自治体や東京電力が「リスクと賢く付き合おう」とか言うと猛反発を受けそうな気もする。政治家が会見の時に使う異常にへりくだった敬語の表現なんか聞いてると特にそう思う。しかし、そうやってゼロ・リスク主義者に迎合していると、何にもできないばかりか、危うい方向にいっちゃう恐れだってあるなと思うのです。

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第二次世界大戦の総括について「暴走した愚かな軍部が突っ走って起こしたもの。一般国民がそれに動員されてあの悲劇になった。」という単純な物語が作られ、東京裁判という劇場で「愚かな軍部」を罰して責任を押し付け、とりあえず人々は気持ちの折り合いをつけて戦後日本は出発したという側面があると思います。でも、本当はそうじゃなかっただろうと思うんですよ。戦争を経験していない私が言うのもアレですけど、きっと国民の間にも戦争を進める「空気」があったに違いない。そして「竹槍じゃ戦闘機には立ち向かえませんよね?」「精神論には限界がきてますよね?」という意見を封じ込めてしまったんだろうと思うのです。きっとそういう合理的な考えを持つ人もいた。おかしいと感じている人もいた。でも、「ほしがりません勝つまでは」っていう国防婦人会のノリに抗しきれなかったんだと思う。

なぜいきなりこういう話を書いているのかというと、ちょっと大げさかもしれないけど、今、ゼロ・リスク、特に放射線被曝に対してゼロ・リスクを訴えまくってる人たちの醸し出す空気って、この国防婦人会的な空気に似たものがあるような気がするんです。どちらも基本は善意から始まっているところも似てる。正義感にかられているところも似てる。そして、反論すれば「非国民」のラベルを貼られる恐怖がある。私が今の「絶対安全」を求める空気が怖いと感じるのも、この「非国民」のラベルを貼られる可能性を感じているからなんですよ、きっと。

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正直、今書いているこの記事をネット上に公開するのもちょっと気が引けるところがあるのは本音です。やっぱりネット上でも叩かれるのは凹むから。自分がかわいいから。でも、後になって「あのとき、竹槍じゃ戦闘機には立ち向かえないと思っていたんですよ」と言っても虚しいだけのなで、今のうちに、「おかしいと思う」という意見表明だけはしておこうと思います。

特に放射性物質の生物濃縮が危惧される野生のキノコを食べるとか、福島第一原発に近く統計上有意なレベルで放射線被曝による障害が出るところに住むとか、そういうことはもちろん避けなければいけません。でも、「ただちに影響はない」レベル、影響があるかどうか分からないようなレベルで大騒ぎし「ゼロ」を求めることはやはりおかしい。それでは身動きが取れなくなるばかりか、誤った方向に進んでしまう危険だってある。見えない放射性物質を穢れ(けがれ)のように忌避するだけじゃ何にもならないと思うのです。